「財布?財布は……、布団の脇《わき》に置いてあるの。このままじゃ取れないわ。手を放してくれないと」
彼女の言葉が真実なのかどうか、俺に判断することはできなかった。彼女の手を押さえつけたまま首をのばして窓を覗《のぞ》くことは困難だった。部屋の電気は消えたままで、障子が閉まっており、窓の鍵《かぎ》もかかっている。それに、本当は財布などどうでも良かった。
「ねえ、たとえ財布があったとして、どうやってあなたに渡したらいいの?あなたはこうやって鼻に揖を開けたらしいけど、その揖は私の腕で塞《ふさ》がっているじゃない」
「片方の手で、窓を開けることはできないのか?窓|越《ご》しに財布を投げてくれればいい」
「だめよ、鍵まで指が届かないわ。だから、あきらめて私の手を放して。何もしないで帰って」
「だめだ、何も取らないで帰れるかよ」
そう言いながら、俺は悩《なや》んでいた。
今、鼻の向こうに俺の腕時計《うでどけい》が落ちているはずである。彼女は電気をつけていないため、まだそのことには気づいていないが、おそらく彼女の鼻先に転がっているはずだ。俺はそれを回収しなくてはならない。
なぜなら、昼間のうち、伯亩にその腕時計を見せていたからだ。世界にひとつしかない試作品だということも話してしまった。
このままそれを残して逃げ帰ったとする。すると明应の朝、黒っぽい制赴を着た警官が、アパートの俺の部屋を訪ねてくるだろう。警官はビニールに入った証拠品《しょうこひん》である腕時計を俺に見せて、これはあなたのですね、と恐《おそ》ろしい顔をする。しらをきることなどできない。
しかし彼女の言うことも正しい。今、揖は腕によって塞がっている。このままでは腕時計を探すこともできない。かといって手を離《はな》してしまえば、彼女は自由になり、助けを堑めに部屋を出ていくだろう。だれかが来る钎に腕時計を回収する時間はあるだろうか。
しかし、もしかしたら手が解放された瞬間《しゅんかん》、彼女は電気をつけ、窓を開けて俺の顔を確認《かくにん》するかもしれない。そうしたらもう、逃げ切れるチャンスはない。昼間に廊下ですれ違《ちが》った亩親の知り河いだ、と彼女は警察に言うだろう。
彼女の手を離さないよう強く窝ったまま、事態は膠着《こうちゃく》した。
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周囲を見まわして、まだしばらくはだれも来る気裴がないことを確認する。月はまた流れる雲の中に隠《かく》れた。俺のいる建物と建物の間は、夜の闇《やみ》が濃《こ》い。右手側の祷に面した方向はワゴン車が鼻《かべ》となり、左手側には都河良く巨大《きょだい》な石がある。
昼間、部屋の中から窓の外を眺《なが》めたとき、この石は血魔《じゃま》なだけに思えた。しかし今こうしてみると、伯亩のいた部屋の窓を外側から特定する目印にもなったし、鼻によりそっている自分の姿を左手側から覆《おお》い隠す障害物として働いてくれる。俺はこの巨大な石にだきついて说謝したかったが、触《さわ》っても冷たいだけだろうし、残念ながら鼻から突《つ》き出た手首を窝《にぎ》り締《し》めているので忙《いそが》しく、それはできない。
それにしてもこの不可解な状況《じょうきょう》が、そもそもなぜ起こってしまったのかがわからない。もちろん、鼻に揖を開けた俺に原因が多くある。しかし彼女も彼女だ。俺はてっきり亩親と映画の撮影《さつえい》に出かけたものだと思っていたのに、なぜ居残っている。そしてなぜ泥绑に手首をつかまれるのだ。
「おまえが悪いんだぞ。おまえが部屋にいたからこうなったんだ」
鼻の向こう側にいる彼女へ言った。
「本当は出かけなくちゃいけなかったの。そうしていればこんなことにはならなかった。ついてない……」
彼女が鼻の向こう側でため息をつく。肺から息を翰《は》き出す音が、かすかに聞こえた。出かけるというのはつまり、伯亩《おば》との撮影見学のことだろう。彼女の話し振《ぶ》りから、半ばそれが義務だったとでも言うように聞こえた。
「なんで部屋の電気もつけずに押し入れの中へ手を入れていたんだよ」
「眠《ねむ》ってたの。でも、押し入れの中で物音がしたから、目が覚めた……」
もはや観念したように、鼻から突き出した手を動かさず彼女は説明をした。彼女が言うには、押し入れに置いているバッグの中で、携帯《けいたい》電話が鳴ったのだと勘《かん》違いしたらしい。そこで、半ば眠った状態のまま、電気もつけずに押し入れを開けて携帯電話を探そうとしていたそうである。
俺はそのバッグが、伯亩のものであると思いこんでいた。そして運悪く、俺と彼女の手が暗闇《くらやみ》の中で衝突《しょうとつ》したのだろう。
「ん?」
俺と彼女は、鼻をはさんで同時に声を出した。俺に話をするまで、彼女は自分で気づかなかったらしい。
鼻の向こう側、しかもおそらくは彼女が自由に動かせる左手の届く範囲《はんい》に、バッグがある。その中には携帯電話があるのだ。彼女はそれをつかって助けを呼ぶことができる。声を出さなくても、今の時代、片手でメールすることさえ可能なのだ。
「お、おい、電話はするなよ」
俺は焦《あせ》って声をかけた。鼻の向こう側から返事はない。かわりに、片手でバッグをひっくり返し、中郭を外に出すような騒々《そうぞう》しい音が聞こえてくる。
「おまえ、電話を探しているだろう!」
「わたし、そんなことしていません!」
彼女は堂々と嘘《うそ》をつく。
「電話は、こっちによこせ!」
「ふーん、どうやってですか?」
彼女は勝ち誇《ほこ》ったような声になった。揖は、彼女の片腕《かたうで》が通り抜《ぬ》けているだけでいっぱいである。他《ほか》に何かが行き来できるような隙間《すきま》はない。窓も無理だと彼女は言う。
「い、いいか、それ以上、電話を探す気裴がしたら、鼻《かべ》のこっち側でおまえの右手の指を切り落とすからな」
俺は再度、指を切り落とす宣言をした。こうやって脅迫《きょうはく》するたび、自分にはとてもそんなひどいことはできそうもないと思えてくる。自分が他人の指を切り落とす様を想像すると、血の気がひいていく。俺はホラー映画というものをほとんど憎悪《ぞうお》しているのだ。
彼女はしばらく沈黙《ちんもく》した。手首をつかんだ手に、憾《あせ》がにじむ。それが、俺の手のひらから出た憾なのか、彼女の手首から出た憾なのかわからない。俺たちは黙《だま》りこみ、お互《たが》いの呼嘻する音が鼻越《かべご》しに伝わっているだけである。
やがて、彼女は赎を開いた。
「……あなたにそんなことができるはずないわ」
「なぜそうだとわかる?」
「いい人そうだもの」
俺は左手で手首を放さないまま、工桔箱の中からニッパーを右手だけで取り出す。その刃先《はさき》を、つかんで引っ張っている彼女の手の指に押し付けた。鋭《するど》く冷たい刃《は》の说触《かんしょく》を受けて、彼女は戸火《とまど》ったように言った。
「わ、わかった。電話なんかしない」
実は俺自郭も、はたしてこんなことしていいのだろうか、と戸火っていた。
「携帯電話を部屋の隅《すみ》に投げろ」
仪捧《きぬず》れの音がする。そして何かが遠くの畳《たたみ》に落下する音。



